疲弊する報道が停滞の政治を生む
谷藤悦史
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早稲田大学政治経済学術院教授、政策研究フォーラム理事長
メディアを色取るジャーナリストの言論の衰退が著しい。とりわけ、これまでジャーナリズムをリードしてきた新聞や放送の言論が精彩を失っている。
一つの事件や事実について、同じような解釈と主張が繰り返されて蓄積される。
新たな事実、新たな解釈についての発見が乏しいのである。
新聞や放送に登場するジャーナリストや評論家も、ほとんど変わり映えがしない。そうして、同じ解釈や主張が繰り返される。
結果的に、何が生じるのか。ある新聞や放送は特定の解釈や主張を有し、別のそれは別の解釈や主張を持っているということになる。
結果的に、新聞や放送はある政治的傾向を持っていると広く認識されることになる。
こうして、メディアは、政権よりと反政権よりに、左派系と右派系に、親中国と反中国に、親韓国と反韓国に認知されてしまう。
このようなことが、今の日本のジャーナリズムに出現して、蔓延しているのである。
最終的に、何がもたらされるであろうか。
新聞や放送の報道は、さまざまな出来事についての信頼に足る情報を獲得するものではなく、自分にとって都合の良い情報を得て、自分の考えを補強するためのものになる。
こうしてメディアは、広く多くの人々に事実を限りなく詳細に伝えて、許容される主張や解釈を生み出し受け入れられる努力を止めてしまう。
自分たちのメディアの解釈や主張に同意してくれる人々だけを集めて新聞や放送を作って、それに共鳴してくれる人々だけのメディアになる。
「公」のためのメディアやジャーナリズムから、特定の「私」ためのメディアやジャーナリズムになるのである。
ときには、その「私」は、大統領、首相になる。
「忖度」ジャーナリズムにほかならない。
ジャーナリズムが、古くから求めてきた精神や哲学とは大きくかい離するのである。
解釈や主張は違っても、事実は可能な限り正確に伝えようとすることが、近代ジャーナリズムの精神であったからである。
「あったこと」を認めて、そこから何が問題であるのかを議論する。
それがジャーナリズムと政治に問われている。そのような姿勢からジャーナリズムを実践することが、政治を大きく動かす原点なのである。
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