東郷茂徳の戦略的見方
田久保 忠衛
杏林大学客員教授・政策研究フォーラム副理事長
開戦、終戦両時の外相であった東郷茂徳について芦田均は堂々と悪口を言っている。
名著との評判が高い『第二次世界大戦外交史』の中で、芦田は「東郷外相は著者の旧知の同僚である。
人柄のよい誠実な外交家であったけれども、慢然として東条内閣に入り、軍閥の言うがままに大戦に突入し、
終戦に際してポツダム宣言に飛びついて急速に降伏をおこなう決断を欠き(飛びつく主張をしたが、口先だけだった)、
ついに歴史上まれなる悲惨な幕切れをもって第二次世界大戦を終った。
この歴史は日本国民の久しきにわたり忘れ難きところである」と表現は針を含んでいる。
関東軍による張作霖の爆殺事件は一九二八年、三一年には奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で関東軍が満鉄を爆破して満州事変が勃発した。
翌三二年には清朝最後の皇帝だった溥儀を満州国皇帝にした。三二年にはリットン報告書が出され、三三年に日本は国際連盟から脱退してしまう。
三三年という年は米国でルーズベルトが大統領になった年だ。ホワイトハウス入りしたルーズベルトはすぐソ連を承認した。
共産主義の総本山で独裁者のスターリンが君臨するソ連を米国だけはなかなか承認しなかっただけに、ルーズベルトの打った手は世界の注目を浴びた。
問題はただそれだけならば国際情勢の分析は簡単だが、ルーズベルトにはしたたかな戦略があった。
関東軍が満州で動きを開始し、それが日中戦争に発展していくのを予知していたのかもしれない。
当時の国際情勢分析では最も公平だと東京裁判のパル判事が太鼓判を押した英王立国際問題研究所の『国際情勢概観』三三年度版は、
国際政治における力の均衡を変えた要素に―米国とソ連の国交樹立、米海軍力の増強、米・フィリピン関係の改善―の三点を挙げている。
完全な日本封じ込めの動きである。
芦田にけなされた東郷は戦後巣鴨の獄中で書いた『時代の一面』の中で、ルーズベルトのソ連承認に触れ、
「これはやがては『ヤルタ』に至る長途の一歩を踏み出したものである」と書いている。戦略的見方の少ない日本の中で東郷のこの指摘は光っている。
芦田の人物評は必ずしもあたらない。
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