日本人が目覚めれば中国は「本当の恩人に」
田久保 忠衛
杏林大学名誉教授・政策研究フォーラム副理事長
日本経済新聞の「私の履歴書」欄に十二月一日から米クリントン政権時の官房長官だったウィリアム・ペリー氏の連載が始まり、
楽しく読んでいる。日本に開港を求めてやってきたコモドア・ペリーの末裔だ。
横須賀市久里浜にあるペリー記念館には大勲位公爵伊藤博文書として「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」が建立されている。
日露戦争の際にセオドア・ルーズベルト米大統領を日本の味方に引き入れるうえで一役買った金子堅太郎が米友協会会長として趣旨書を書き、
募金を集めた結果、戦争前の明治三十四年(一九〇一年)に建てられた。
日本の鎖国の夢を破り、外国に目を向けてくれた恩人ペリーに対する敬愛の気持が溢れていると言っていい。
フィルモア大統領とウェブスター国務長官の二人にペリー派遣の決断を促した人物は、
「プレブル」号艦長として米人遭難者の救出で日本と交渉の経験を持つジェームズ・グリン、米東インド洋艦隊の司令官ジャン・H・オーリック、
ニューヨークの仲買人アーロン・H・パーマーの三人だ。このうちパーマーは中国との貿易船の中継地
、捕鯨船の寄港地として日本に開港をさせるには力を背景にした砲艦外交が必要と説く「最後通告」案を書いた。
日本を格下の国と見なし、威圧する表現に満ちている。
ペリーは強大な軍事力をちらつかせながら、慇懃無礼な態度で要求を全部飲ませた。
この半世紀後に大統領として活躍したセオドア・ルーズベルトは、ドイツの影響力がカリブ海に出てきたのに対抗して有名な「棍棒外交」を展開した。
米国の外交史などのテキストに引用されている " Speaking Softly While Carrying a Big Stick" を私は「でっかい棍棒片手に猫なで声で」と訳してきた。
米国との戦争に負けたあとマッカーサーがやったのは強引な日本の国体変更だった。
にもかかわらず、日本人の一部は「マッカーサーは日本人を軍国主義の軛から解き放ってくれた恩人だ」と礼賛した。
最近の中国は「猫なで声」どころか、「でっかい棍棒」片手に日本を恫喝し始めた。これで日本が目覚めれば「中国は本当の恩人」になるのだが……。
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