「まるごとの公衆」のための「新・国民政党」を目指せ
加藤 秀治郎
東洋大学法学部教授、政策研究フォーラム副理事長
民主党が綱領の制定を進めている。議論は相変わらず「五五年体制」を引きずったものとなっており、人々に訴えるものがない。
改めて斬新な自己規定を求めておきたい。
動きは昨年の総選挙前からだが、細野豪志政調会長のテレビ番組での「中道」発言が関心を呼んだ。
憲法九条が、安倍・自民党や石原・橋下の維新との対立軸になりうるというのだ。
「軽武装で民生の安定を図ってきた」ことを是とする、としたのだ。
だが、そんなことでは全然ダメだ。「五五年体制」での「中間」という意味の「中道」であり、問題外としか評せない。
自民党と社会党(現社民党)・共産党の中間の路線を「中道」とするような考えではないか。
外交・防衛が対立軸であり、社共は自衛隊違憲の非武装論だったから、それとの「中間」というのでは、かつての公明党的な路線としかならない。
今、政党間の新しい対立軸が求められるとすれば、旧式の「中間」であっていいはずがなく、欧米並みに、外交・防衛ではなく、
経済政策・社会政策にこそ、対立軸を求めるべきだ。
第一、中国が尖閣周辺で毎日のように挑発行動を展開している現在、そんなことで国民の不安を解消できるというのか?
外交・防衛は相手のあることであり、「政争は波打ち際まで」なのだから、外交・防衛に対立軸を求めていてはならない。
国内には経済やら雇用やら、問題が山積している。
この三年を猛省し、魅力ある前向きな政策を展開することでしか、突破口はない。
その路線を何と呼ぶのがよいかは、簡単ではない。むしろ別の論点から入るのが良いだろう。
「消費者」「生活者」の党という自己規定の見直しである。
自民党が「生産者」の諸組織にべったりだったから、それに対抗して「消費者」「生活者」を重視したのは誤りでなかった。
だが、消費でも生活でも、生産が前提となっているのもまた当然で、この三年の政権運営の経験から、生産も重視すべし、との反省を引き出してよい。
党内の「脱原発」勢力の無責任を問う意味でも、その視点があってよいではないか。
人々の「まるごとの生活」の改革を図る党への脱皮である。欧米なら「まるごとの市民の生活」を改革する「新しい公衆のための党」という表現になるが、
日本語では簡単でない。さしあたり「新しい国民政党」の路線といっておく。
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