不毛な「大統領候補ディベート」が問いかけるもの
谷藤悦史
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早稲田大学政治経済学術院教授、政策研究フォーラム理事長
二〇一六年九月二十六日、次期アメリカ大統領選挙(十一月)のための候補者討論会が行われた。
述べるまでもなくH・クリントン(民主党)とD・トランプ(共和党)のテレビ討論である。
両候補者が、将来のアメリカ政治をどのように構想するのか、アメリカが直面する問題についてどのように対処するかの深い議論もなく、
相手のこれまでの発言の矛盾や変節、そしてまた人格などに焦点を当てた非難合戦に集中して終わった。
アメリカの政治が今後どのような道を辿ろうとしているのかについての情報は皆無に近かった。
アメリカのメディアは、どちらが勝利したかについて様々な論評を加えていたが、その論評も科学的な根拠がまるでなく印象記そのものであった。
副大統領候補者の討論を加えて、十一月の選挙までにあと三回も実施されるという。
時間の浪費であろう。
こんなことが何故に繰り返されるのか。アメリカ政治において、「ディベートする力」が衰退しているからである。
「ディベートする力」とは何であろうか。
さまざまな証拠例を用いて、他者を説得し、同意を引き出すことである。
論破することで他者を負かすことではないのである。民主主義政治を行うための基礎でもある。
それゆえに、民主主義政治を実践するためにディベートが重要視されたのである。
今回の大統領候補ディベートでは、自分が述べたいことを主張するだけで、議論が大きく発展することがなかった。
そこには、説得も新たな合意も生まれなかったのである。
ディベートを行う当事者を超えて、国民の間に共感を作り出せなかった。
「見せ方」のようなゲームの技術は進歩しても、内実は空虚なままである。
人々は、新たな情報や知見を得られることなく選挙に向かう。
民主主義の形式は整えられているものの、その実態は空洞化している。
今日のアメリカ政治の現実でもある。
自分に都合の良い証拠例だけを取り上げ正当化する政治、批判や非難を繰り返すだけで合意を導き出さない政治、
多くの人の共感を作り出さずに不信だけを導き出す政治は、アメリカのみの現象ではない。わが国の政治も同様であろう。
大統領候補ディベートは、民主主義の政治が危機的であることをあらためて示唆している。 |